
オキちゃんが死んだ日
沖縄県本部町にある観光名所「美ら海水族館」は知る人も多いことだろう。
沖縄の本土復帰間もない1975年に沖縄国際海洋博覧会が行われた。
その際にマスコットキャラクターとして奄美近海から沖縄にやって来たのがミナミバンドウイルカのオキちゃんだ。
私はしばらく沖縄に住んだことがある。
ついでに水族館は嫌いだ。
イルカショーなどなんの興味もない。
かえって動物のショーは悲しくて仕方がない。
若いその頃はそんな間抜けに跳ねっ返りの強いことを思っていた。
私の父が末期の癌で死ぬ年の夏、彼は意外に元気で、沖縄に遊びに来た。
私は死が近い父親にも、年甲斐もなくぶう垂れていた。
「沖縄に来たのだから美ら海水族館に行かなくちゃ」という父をつまらない男だと思い、ぶうぶう言いながら車に乗っていた。
あの日の沖縄は本当に暑かった。
沖縄らしいヘビーでハッピーな夏だった。
水族館内を適当に見た後で、父はイルカショーが見たいなどと言い出して私は熱烈に反対していた。
だが
「ほら、お父さんもうすぐ死ぬんだからよお。頼むよ。」と、いつもの冗談のように言われてしまってはさすがに本物の反抗期は過ぎている私は根負けし、イルカショーに並んだ。
本当に「つまんねえなあ」と言っていたと思う。なんてことなんだろう。信じられない娘というのも世の中にはいるのだ。
そしてショーが始まり、飼育員からオキちゃんのヤバいプロフィールがさらりと元気いっぱいにアナウンスされると
「1975年⁈」と冷静にヤバがる時間も持たされず、水中から3頭並んだどのイルカより高く飛んで出て来たのがオキちゃんだった。
なんのことはないショーなのだ。
ただ、オキちゃんが当たり前のようにショーガールで、当たり前のようにやる気満々で、スターなら当たり前と言わんばかりにコンディションも完璧なのだ。
時間的に西南西にはもう雨柱が見えているけれど、こちらはまだ晴天で空は青い。
綺麗に整備されているだけのはずの植木類の全てが範囲の限り深緑と生え、赤に咲き乱れ、沖縄節を鳴らしているような重く鮮やかな色彩だった。
イルカになるために産まれてきたようなオキちゃんの全身は太陽を照り返して、顔は間違いなく笑っていたのだ。
あまりのことに私は、反抗期も忘れ、自分の小ささなどを自責しつつ簡単に感動し、オキちゃん…オキちゃん…と胸中で崇めた。
それでもオキちゃんに感銘を受けてしまったことも隠したいがために涙が出るのでお手洗いに逃げたりしたのだ。
飼いイルカの寿命はストレスや水槽への衝突行為などで、非常に短いと報告されていること。
オキちゃんは9回の死産の末、娘を産んだなら日に300回の授乳を飼育員に任せず、片時も赤ちゃんから離れずに育児をしたこと。
また、親子揃って長年仕事をしたこと。
当時はそんなこと知らなかった。
ただただオキちゃんの、また、美ら海水族館のイルカショーに元気をもらったのだ。
オキちゃんは推定52歳で亡くなった。
人間の年齢で40歳程度がイルカでは100歳だと言われている。
オキちゃんは今年の夏まで働いた、と、沖縄タイムズは伝えている。
私が2023年に娘2人を連れて美ら海水族館へ行ったとき、あまりに混んでいたのと、娘らはまだ小さくて暑い中待てなさそうなのと、なによりオキちゃんは自分よりずっと強くて、いつだって居てくれると馬鹿みたいに思い込んで、イルカショーを見送ったのだ。
「あっちにイルカのオキちゃんがいるよ。」と指をさすと、小さかった娘たちは何事かもわからず「オキちゃーん」と手を振った。
それまでだった。
オキちゃんが死んだ12月2日、娘たちは沖縄へ行ってからたった2年しか経っていないのに、よく大きくなっていた。
ベーゴマに凝り、家でも熱心に鍛錬し、宿題をやったり、練り消しのことを考えていたりで、あの頃の幼児ではなくなっていた。
いつものように過ごしていたつもりでも、小さな毎日の積み重ねであっという間に大きくなっていた。
人間を元気にするために産まれてきたイルカの52年間は、小さな毎日の積み重ねじゃない。
毎日ショーをし、毎日努力し、笑顔でいたイルカの52年間。
人間如きには測り知れない時間を、地球の小さな水槽で豊かに過ごした。
こうしてオキちゃんは本物の神様になった、と、娘に長いストーリーにして話そうと思う。
